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【アラベスク】  第19章 朝靄の欠片



第2節 再びボロアパート [11]




 焦る瑠駆真の脳裏に、路地裏で消えた美鶴の姿が重なる。雨の日の彷徨う姿も。そして、シャンプーの香り。
 霞流しかない。
 言い聞かせる。
 美鶴が頼る相手は、彼しかいない。いや、頼っているのではないのかもしれない。追いかけているのかも。
 自分の腕の中から逃げ出し、他の男の背中を追いかける。
 悔しい。許せない。今すぐに連れ戻したい。
 授業中、教室を飛び出して美鶴の教室へ飛び込み、連れ出したいという衝動に駆られる事もある。
 そしてついに今日、美鶴は学校を休んだ。
 なぜ休んだのだろう。このまま、ずっと休み続けるのだろうか? そうしていつしか、自分の目の前から、消えていなくなってしまうのだろうか?
 もう、自分を抑える事などできない。
 なんとしても、美鶴を見つけ出さなくては。
 放課と同時に学校を飛び出した。躊躇う事なく富丘へ向かう電車に乗った。
 確信なんて無い。霞流の家へ行けば美鶴の居場所へ繋がる何かの手がかりが見つかるだなんて保障もない。
 でも、これしかない。
 車窓を睨みつけた。同時に車内放送が、富丘駅への到着を告げた。



 最初にこの駅で降りたのはいつだっただろうか? 確か美鶴の住んでいたボロアパートが放火で焼失してすぐの事だったから、ちょうど一年ほど前という事になるのだろうか?
 街路樹は美しく、街並みは穏やかだ。やがてこの清々しさがジットリとした空気に包まれる事となる。
 坂を登り切り、目の前の屋敷と対峙する。
 なぜだか、心穏やかだ。これから恋敵と対峙するかもしれないというのに、不思議と高揚感もない。どうにでもなれといった、開き直りだろうか?
 思わず苦笑し、ゆっくりと、強く、呼び鈴を押した。
「はい?」
 女性の声だ。名を告げる。
「こちらに、霞流慎二という男性がいると思うのですが」
 相手はしばし沈黙。
「霞流慎二、さんか、でなければ大迫美鶴という女の子は居ませんか?」
「しばらくお待ちくださいませ」
 そう言って切られ、そのまま本当にしばらく待たされた。
 このまま無視?
 そう疑いそうになった頃、唐突に門が開いた。目の前に姿を現したのは、木崎(きざき)という老人だった。
「ようこそお越しくださいました」
 柔らかな笑みと共に恭しく頭を下げ、右手で敷地内へと(いざな)う。
「お急ぎでなければ、お入りくださいませ」
「あの、霞流慎二、さんは?」
 その問いに木崎は答えず、ただ無言で中へと促す。瑠駆真は一瞬躊躇った後、足を一歩踏み入れた。
 一年前、聡が植物園かと驚嘆した庭を抜け、瑠駆真は木崎に誘導されて屋敷内へと入った。庭に面した小部屋に案内され、ほどなくして使用人が紅茶と菓子を運んできた。サクランボのクラフティだと説明されて、社交辞令的に一口食べた。焼きプリンのような食感だが思ったほど甘くはない。サクランボに少し酸味があって爽やかで美味しい。最近では糖度の高いフルーツが好まれるようだが、甘過ぎる果物は喉が渇くだけであまり得意ではない。この程度の甘さは程よい。
 喉が渇いていた事に初めて気付いた。一気に紅茶を飲み干す姿に木崎は微笑を浮かべ、壁の呼び鈴を押して使用人を呼んだ。氷を浮かべたアイスティーが運ばれてきた時には、さすがに恐縮した。
「すみません。長居をするつもりは」
「おや、お急ぎでしたか?」
「いえ、そういうワケでは」
 言い淀み、姿勢を正す。
「あの、それで、霞流慎二、さんは?」
「生憎と慎二様は留守でして」
「そうですか」
 そう答え、クラフティをもう一口食す。
 自分が霞流慎二を訪ねて来た事はインターフォン越しに伝えてあるはずだ。門まで出向いてきた木崎にも伝えた。居ないのなら、なぜ自分を屋敷の中へなど入れたのだろうか?
 怪訝そうに首を傾げる相手に、木崎は一度大きく息を吸ってから口を開いた。
「大迫美鶴様に、何かあったのですか?」
「え?」
 突然の質問に面食らった。
「え? 美鶴?」
「はい」
「どうして?」
 どうして今、美鶴の名前が?
 目を丸くする相手を、木崎は真面目に見返す。
「インターフォンで、美鶴様のお名前を出されましたよね?」
「あ」
 思いつきだった。
 霞流を訪ねるつもりでやってきたのだが、門の前に立ち、突然思いついたのだ。ひょっとしたら、やはり美鶴は、この屋敷のどこかに匿われているのではないか、と。以前、聡と二人で訪ねた時には居ないと言われたが、やはり、やっぱり美鶴はここに居るのではないか。しつこく問い詰めれば、美鶴は出て来るのではないか、と。
 一年前、火事で住む場所を失った時、美鶴はこの屋敷から学校へと通った。同じような事が、今も起きているのではないだろうか。
「先日も美鶴様を探してこちらにいらっしゃいましたよね。あの時はたしか金本様もご一緒だったような」
 帰ってこない美鶴を探すために、聡と二人で富丘に来た。応対してくれたのは木崎だった。あの時はインターフォン越しでの会話だけだった。来ていないと答える木崎の言葉を嘘だとは思えず、二人はその後、唐渓の制服のまま繁華街へと向かった。
「また、美鶴様が行方不明に?」
「えっと、行方不明というか、別に前みたいに雲隠れしてしまったというワケではないのですが」
「なぜ美鶴様がここに居ると思われたのです? なぜこの屋敷に、美鶴様を訪ねてきたのですか?」
「それは」
「この時間なら、駅舎の方にいらっしゃるのでは?」
「そ、それは」
「いないのですね」
「はぁ」
「そしてこちらに探しに来られた」
 瑠駆真は黙って少し俯いた。
「なぜこの屋敷に美鶴様がおられると思ったのです?」
 木崎は首を捻った。
「この時間から考えますと、あなたは学校の授業が終わってからすぐにこちらに来られたようだ。他に寄り道をしたとは思えない」
「早くに授業が終わったとは考えられませんか?」
 まるで推理小説を読んでいるかのような語りをされ、瑠駆真は少し不快になった。まるで自分は、何かの事件の容疑者にでもされているかのようだ。
「そうとも考えられますね。山脇様は三年生だから、授業はもはや受験勉強のためのようなもの。新しい知識を増やすような内容ではないはずですし」
 そこで悪戯っぽく笑う。
「午後の授業を早退される事だってあるかもしれない。しかし」
 そこで素早く瞬く。
「そうなりますと、あなたは午後の授業を遠慮してまで美鶴様を探されておられるという事になる。尋常ではありませんね」
 穏やかだが、凛と見据えるような瞳。
「あなたが必死になって美鶴様を探しておられるのがわかる。それも、血眼になって、と表現してもよいくらいに」
 瑠駆真は大きく息を吐いた。身をソファーに埋める。
 血眼になって。







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